母親は終戦当時は、郵便局員でした。
母親は、当時を生きていたのです。
亡父は当時軍人さんでした。

僕は、遅い子でした。
はは~(笑)
つまり僕は、同級生の中でただ独り、団塊ジュニアではありません。
僕の年齢で両親が戦争経験者と言うのは、まずありません。
同級生と話をしても考えかたに年齢的な差を感じます。

余談ですが僕が昭和に魅かれるのは、両親が高齢だったからです。

当時母親は戦時中も電車で通勤、郵便局の集金で外回りでした。
母親が住んでいた場所は軍事飛行場の近く!
艦載機に追いかけながら、一日を生きるのが精一杯でした。

空襲警報のサイレンは毎晩、
睡眠不足の疲労は限界でも眠ることは、できませんでした。
仕事は仕事、休む事はありませんでした。
当時の夢は、すいみん!

高松空襲の時の火の海は、遠くにありました。

別の方から聞いたのですが、
焼夷弾と言う町を焼き尽くす爆弾は、空中では一つです。
「あの物体はなんだろう」と、思って見上げていたら、
それが花火の様に「パ~ン」と、空中で開き、町を火の海にします。

老若男女の身体に火がつきます。
爆発物ではありませんから、一気には死ねません。

徐々に焼け死んでいくのです。
一緒に逃げている身内が悶えながら隣りで死んでいくのです。
焼け死んだ人の死体は、「ぷすぷす」と、音をたてて燃えています。
歩くしかありません。

歩いた先が安全か、危険かの判断がつかぬままでも歩くしかありません。
海では何とか生き延びようとして自力で消火した人が焼け死んでいきます。
瓦礫の様な死体は、ぷかぷかと浮かんでいます。


あれあら67年、今のところは、まちがいなく平和です。

母言葉、
「戦前のお盆、浴衣を着て提灯をさげて先祖の墓参りをするのが楽しみだった。」
「戦争は、言葉では表現できない位に悲惨」
「晩御飯が食べられるの事は、本当に幸せな事」

最後までお読みいただいたみなさん、
遠くに住んでいる母ちゃんに、今すぐに電話して下さい。

「元気か~」って、言う一言でいい。

それだけで、充分しあわわだから、、、、。





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